2013年5月11日土曜日

グローバル人材って、何だろう?


最近特に耳にする言葉に、「グローバル人材」という言葉があります。

グローバル人材?なんやそれ?と思われる方も多いtと思います。世界で通用する人材、ということのようですが、それって一体どういう人材の事を言うのでしょうか。また、誰がどうやってそんな人材が育てられるのか。

いま、なぜグローバル人材が求められているか。また、これから求められると言われているのでしょうか。

日本の産業の空洞化が懸念されてきました。多くの日本企業は特に長期にわたる円高の為に国内産業の輸出競争力が低下し、タイ、中国、ベトナム、インドなどの低賃金の国へ生産拠点を移したり、台湾や韓国の企業に市場を奪われて国内の生産拠点を縮小したりしています。必然的に現地で採用する人材と日本から派遣する人材が同じ職場で働くことになり、日本から派遣される人材は現地の人材と比較し評価されることになります。国内での評価とは全く異なる評価基準での評価が求められることになります。また、それに耐えられる人材が求められます。

例えば日産自動車はフランスのルノーの傘下にあって、世界各地での現地生産を進めています。また日本の経営幹部には多くの外国人が採用又は派遣されています。

また、少子化の進む日本は、既に外資の誘致や外国人労働者の受入れをせざる得ない状況になりつつあります。また進む世界貿易の自由化の流れの中で、日本もTPPをはじめ様々なFTAやEPAなど、他国との自由貿易協定の締結を進めざるを得ず、これらの国々との間で商品やサービス、又投資等の自由化が人材を含めてグローバルな競争に巻き込まれつつあります。つまり、日本に居ながら、日本にいる、又は海外にいる外国人の人材と比較し評価され、それに耐える人材が求められると言う事です。

例えば多くの外食産業やコンビニエンスストアは中国人やベトナム人などを従業員として採用しています。また同じ自動車の製造に携わる工員は常に外国に在る現地の工場の工員と比較して評価されます。

では、どういう人材が外国人の人材と比較され、評価されるのでしょうか。逆に、グローバル人材でないとされる人材は、なぜそう判断、評価されるのでしょうか。

なぜ、日本で一般的な教育を受けて社会に送り出される人材はグローバル人材と呼ばれないのでしょうか。グローバル人材と呼ばれる為の特殊な訓練や教育が欠けているのでしょうか。では、海外の人材は全てグローバル人材なのでしょうか。世界中の人材は、グローバル人材とそうでない、ローカル人材が存在しているのでしょうか。これらが存在するとした場合、個々の人材のどんな条件でその分類が決まるのでしょうか。また、この二種類の人材の分類は何を意味するのでしょうか。

ローカル人材とグローバル人材とは何が違うのでしょうか。

グローバルな人材の市場で対象となる職種は、求められるスキルセットが国境を越えて標準化されている専門職、または普遍的に求められている知識及び経験を有している経営管理者。これらの職種にしても、従来は国内のみのローカルな人材市場において需給が均衡し、国境を超えるニーズも限定的で、外国から国内市場への人材の供給もごく一部に限られていました。

ところが前述のような日本の産業構造や経済状況、国際的な貿易環境や社会環境の変化が、これらの人材市場のニーズが変化し、同時にこれらの変化が外国からの人材の供給圧力を増加させています。

国内企業の海外進出により、求められてきた従来の要件に加えて、現地の人材として求められる要件をも備えた人材が内外を問わず求められると同時に、外国の優秀な人材が国境を越えて流入したり、外国に居ながら商品やサービスを提供することで国内の人材市場に大きな影響を与ます。つまり、ローカルな人材の市場としての国内の観光業や運輸業、伝統工芸や小売業などのローカルな人材市場においても、流入する外国人が現地化しつつローカルな人材市場に参入するわけです。彼らもまた母国での人材としての要件を備えつつ、日本での現地の要件を満たすグローバル人材と言えると思います。

つまり、ローカル人材とは、多様な環境のグローバルな市場に参加できない人材と言うわけです。また、ローカルな人材市場においても、今後はグローバル人材である外国人の参入が増えることが見込まれますから、まねのできない質の高い商品やサービスが提供出来る事が求められるようになるでしょう。

多様化しつつ変化し続ける環境と人との係わり

今まで述べてきたように、グローバル人材とは多様な環境へ適応することのできる人材だと仮定します。では、そのような人達は多様化する社会環境をどのように捉え、どのように対応し、どのように係わっているのでしょう。

人々を取り巻く社会環境について、既に変わってしまっているもの、今、変わりつつあるもの、これから変わろうとしているもの、変わろうとしないものがあります。また、変ることが出来ないものもあるでしょう。そんな常に変化している社会環境と人はどのように係わっているのでしょうか。一人の人間として、これをどのように捉え、どのように対応すればよいのでしょうか。あるいはこれを無視し、これらの社会環境と関係なく生きて行くことが出来るのでしょうか。

言い換えれば、一人ひとりの人が、それぞれどのような世界観を持ち、その中での自分の役割をどのように捉えているのか、そしてその役割をどのように果たしていこうとしているのか、と言うことが出来ると思います。

社会的環境としての世界をどのように捉えるのか

では、私たちを取り巻く環境として、何が、どう変わりつつあるのでしょうか?

「環境」と言っても、人によって感じ方は異なります。環境の変化や状態を捉える一般的な方法として、企業がビジネスの環境を分析する際の、最も基本的な手法としてのPEST分析があります。これは、自分を取り巻く外部環境を大きく次の4つの分野に分類整理して環境の多様化と変化を分析する方法です。

1.政治的な環境(Politics)
2.経済的な環境(Economy)
3.社会的な環境(Society)
4.技術的な環境(Technology)

これら4つの分野で、どのような要素が、どのように変化したのか、変化しているのか、変化しようとしているのかを整理して分析することは、企業のビジネスだけではなく、個人一人ひとりが置かれている様々な社会的な状況をより良くする為にもとても大切なことだと思います。

例えば、政治的な環境は日本でさえ政権交代が起き、政策の変更により日々の暮らしに影響する税金や物価、雇用などに大きな影響を与えます。日本の中でも都心部と地方でも影響は異なりますが、国が違えば当然制度そのものが異なり、全く異なる政治環境の下に生活することになります。

経済的な環境も日々の生活に大きな影響を与えています。景気が良ければ給料やボーナスが増え、生活水準も上がります。金利が上がれば住宅ローンの負担が重くなります。円高が続けば海外旅行の費用も安くなり、輸入食料品も安く買えます。

社会的な環境として、最も身近な家族や友人、住んでいる地域、学校や会社があります。これらも常に変化しつつあり、また、場合によっては自らの選択によって変える場合もあります。

技術的なものとしては昨今のIT技術の進歩によるコンピュータやインターネット、スマートフォンなどによる生活の変化などが挙げられると思います。

個人にとっての外部環境、世界の広がりと変化

人の成長に合わせて人が自覚する外部環境は広がりを持ちます。
生まれて直ぐに直接影響を及ぼすのは当然身の回りの人々や出来事ですから、社会的な環境としての家族そのもが外部環境の全てと言えます。まずここで人によって環境が大きく異なります。両親がそろっていること、兄弟がいるいない、祖父母が同居しているいないなどの違いで、子供の身に降りかかる出来事は大きく異なります。

やがて成長して、家の外へ出ます。もちろん母親や父親と一緒です。祖父や祖母の場合もあります。近所の公園や道路で出あう他人、同じくらいの幼児など。犬や猫に会うかもしれません。社会環境の変化です。すでに家族環境の違いで、子供一人ひとりの社会的な対応経験は大きく異なっており、社会的な出来事に対する反応の傾向はある程度パターンが決まってきます。

6歳になると小学校へあがります。その前に3歳又は4歳で保育園や幼稚園に通う場合もあります。家族という環境から全く別の、先生と同級生という社会環境に投げ出されることになります。ここら辺りから人は鍛えられ始め、社会的イベントに対する対応はそれぞれの対応パターンに応じて高度化させていくことになります。

こうやって、個人を取り巻く社会的環境への関わり方が個人の生き方や幸せを大きく左右することになります。個人が独立した個人として社会と関わる為には、自分を取り巻く社会環境をどのように捉え、どう関わって行くかをそれぞれの個人が考え、判断し、社会の一員として行動していくことが必要です。

適応しつつ独自の能力を発揮できる、環境とインターラクティブなグローバル人材

人は一人ひとり、それぞれの世界を持って成長して、日々の生活を暮らしています。そしてそれを自分なりに捉えて、日々の変化に対応して、人によっては気にせずに生活することもできますが、何れにせよ影響受けながら生活することになります。これらの外部環境については、変える事の出来ない所与のものと、自ら変えて行くことの出来るものがありますが、自分なりにこれを捉えて自分の判断で自分を変える、環境に働きかける、環境そのものを変えてしまうなど、自ら選択的に行動していくことがグローバル、又は普遍的な人材の生き方と言えるのではないでしょうか。

また、そうすることで他の人たちも同様の選択を繰り返している事を理解し、お互いの環境の一部として、また仲間としてお互いに尊重し合える関係を築いて行けるのではないでしょうか。